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1:発端 Edit

UMAについて扱うサイトで河童や鬼、龍を取り上げているサイトを見たことがある。最初は違和感を感じた。それらが妖怪として扱われるならともかく、どうして未確認生物なのか。理由として思い浮かぶ点もあった。真贋はともかく、それらは剥製やミイラとされるものがあり、比較的広く知られている。物質的な痕跡かもしれないものが残っている以上、これらを他のUMAと同列に取り上げることは可能だ。
考えてみると、以下の条件を満たしていれば、最低限UMAと言うことが可能だ。
・目撃証言
・体毛やミイラ、剥製
もちろん2番目のものの代わりに写真や動画でもいいし、目撃証言しかないものも多い。
言うまでもないがこの場合、目撃証言には聞いた人間のうちある程度の人数が「あり得る」と思うようなものがなければならない。さらにそれがUMAだとされるためには、それが肉体を持った動物であり、超自然的なものではないことが必要だ。
それでは、「妖怪であり、かつUMAでもある」ことは可能なのだろうか。

2:妖怪にとってのUMA Edit

前節の疑問を検討する前に、妖怪について考えておく必要がある。
そもそも妖怪という言葉が指し示す対象には、大きく分けて二つある。ひとつは超自然的なもの。もう一つはある種の動物である※1。超自然的な動物というものは存在しない※2。両者の違いは、物理的な力で退治が可能かどうかの違いとも言える。河童は犬という言葉やカラスという言葉と同様、複数の種を総称する言葉である。そのため河童の全てが動物とは言えないだろう。しかし、河童の中には「そういう動物」として、犬やカラスと同様に認識されていたものもある。そうした河童はUMAとしても扱える。逆にワラ人形が変化した存在としての河童は、UMAとしては扱えないだろう。後者の河童は動物ではないからだ(その意味で、前節のサイトが河童をUMAとしたことは正確さを欠く)。
河童に限らず「槌転」や「ぬえ」のように、妖怪の中にはある種の動物として認識されていたと思われるものが少なくない。一方で「伸び上がり」や「しょうけら」のように、超自然的なものも多い。どちらも生物として存在が信じられはしたろうが、どのような存在として信じられたかに大きな違いがある。
このように超自然的な存在と動物としての存在とが漠然と入り交じっていることに「妖怪」という言葉の曖昧さの一端がある。動物でもある種の条件を満たせば「妖怪」と呼べるなら、オラン・ペンデクやフロッグマンなども海外の妖怪と言えることになってしまう。たとえば目撃証言や真偽不明の写真やミイラのみがあってその実在が裏付けられず、その存在を疑いなく信じる人が少ない、といった条件だ。
そうしてみると、UMAは妖怪という概念の下位概念と言えるかもしれない。その場合、UMAは妖怪の中でも超自然的な存在ではないもの、となる。この考えが妥当なら、ある種の河童が妖怪でもありUMAでもあるというのは不思議ではない。それどころか、むしろ単純に「河童は妖怪である」と述べるよりも「ある種の河童はUMAである」と述べる方がより細かい扱いをしているということになるだろう。
UMAを妖怪の下位概念に配置するというのは、あながち無理矢理でもない。小松和彦は「怪異の民俗学」の解説の中で「「妖怪」とは人びとに「あやしい」という念を起こさせたものすべてを意味するのである」と述べている。その定義が妥当なら、その実在や存在を人々が「あやしい」と考えるUMAも妖怪なのである。
とはいえ、「UMAも妖怪である」という考えに違和感を持つ人もあるだろう。これは無理もないことだ。次節ではUMAから見た妖怪について考えてみる。

3:UMAにとっての妖怪Edit

UMAは前提として、それが動物であるという要素を持っている。一方で先に述べたように、妖怪は動物でなくともよい。また、超自然的な存在はUMAではない※3。そのためUMAの方からすれば、超自然的なものと動物とを区別しない「妖怪」という概念に含まれることに違和感が生まれるのである※4。
またUMAは発見したり捕獲したりというアプローチも取られるが、妖怪を発見し捕獲しようというアプローチは取られない。イエティやオゴポゴの調査隊はあっても、すねこすり調査隊や野槌調査隊が結成されることはない。
言い換えれば、妖怪であるためには実在しなくともかまわない。ところがUMAであるためには実在するかしないかがハッキリしない状態でなければならず、実在が証明されればそれは動物に、実在しないことが証明されればそれは空想や錯覚になってしまい、もはやUMAであることはできない。
つまり、UMAであり続けるためには存否が問われ続けることが必須なのだが、妖怪はその必要がない。それにUMAは何かを指した静的な言葉ではなく、その存否が判明するまでの一時的な状況下にあるモノを示す動的な言葉である。ネッシーは、モケーレ・ムベンベはUMAだ。しかしUMAと呼べなくなる可能性は常にあるのだ。

4:UMA河童 Edit

「妖怪であり、かつUMAでもある」ことは可能なのだろうか、という疑問に立ち返るならば、その答えは妖怪とUMAのどちらの視点で眺めるかで異なることになる。妖怪からならばそれは可能だ。しかし、UMAからすればそれは不可能ではないが違和感が残る。
では、UMAからすれば「河童は妖怪でもありUMAでもある」とするより「河童はUMAであり、妖怪ではない」とする方が馴染むかと言えばそうでもない。これは河童が妖怪として語られる機会が圧倒的に多いためだろう。要するに「河童は妖怪である」という認識は正しいかどうかはともかく、既成事実であり慣習的事実なのだ。それに対し、河童をUMAとして扱う方が稀である。そのため「河童はUMAである」と述べた場合、多くの人にとってそれは「河童は妖怪である」という認識と併存する。これはそもそも、妖怪やUMAというものの定義について、たいていはそれほど深く考えられないことに起因する。
しかし、それだけではないような気がする。前節で「UMAはその存否が判明するまでの一時的な状況下にあるモノを示す言葉である」とした。してみると、「河童は妖怪でもありUMAでもある」とは、「河童は妖怪とされているが、その存否は現在も不明である」ということに他ならない。河童に豊富な目撃談や接触談が存在することや、(ほぼ全てが贋作だと判明していても)ミイラや剥製があることからすると、「河童は妖怪とされているが、その存否は現在も不明である」と言いたくなる人が出てくるのも不自然ではない。
河童はUMAだ。それはUMAが特定のものを示すのではなく、ある状況下にあるものを示しているに過ぎないという、ともすれば忘れられがちなことを再認識させてくれる。

余録 Edit

※1 wikipeiaの妖怪の項目には「人間には理解できない奇怪で異常な現象を象徴する超自然的存在、もしくは常識から逸脱した振る舞いをし不可思議な能力を発揮する伝説上の存在のこと」とあるが、それは誤りである。妖怪が超自然的な存在だというのはあくまでも後世から見てであり、その言葉が誕生した当時、たとえば河童などは超自然的なものというよりは、ある種の動物と考えられていた場合もある。井上円了が学術用語として用いた「妖怪」だというのならば誤りではないようだが。

※2 動物とは、人間や犬や猫や象と同じく物質から肉体を構成し、摂食など自然の法則から逸脱しない生物のことである。一方で、生きてさえいれば自然から逸脱しようとも生物である。

※3 「超自然的な存在はUMAではない」という考えからすれば、悪魔の呪いによって誕生したとされるジャージーデビルはUMAではない。ジャージーデビルを素朴にUMA扱いする言説が減っているという流れは、UMAに対するこうした見解の妥当性をある程度は補強してくれるだろう。

※4 もっとも、現地人から超自然的な存在だとされているものがUMA扱いされていることもある。これは逆にUMAという概念の曖昧さを示している。なぜある種の超自然的な存在がUMAとされるかについては別の記事で述べたい。

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