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:ヌシ的存在とUMA Edit

ネッシーやイッシーなど比較的大型の著名な水棲UMAについて語られたものを見聞きすると、そうしたものの生息する湖池には龍神伝説やドラゴン伝説が伝わっていたと述べる箇所が散見される。それがどのようなものなのかを詳述していることは少ないが、こうした伝説の存在は驚くに値しない。有名な大型の水棲UMAが目撃されると言われるような湖池は基本的に周辺地域のランドマークとなるようなものが多く、世界中でそうした場所は(湖池に限らず)何らかの「ヌシ的」な存在が伝承されているからだ。さすがにこうした「ヌシ的存在」の正体がネッシーやイッシーといったそれぞれUMAであると高らかに述べられることはまずない。一方で、伝承や伝説が一抹の事実を含んでいるという、使い倒された指摘によって両者の関係を暗にほのめかす文章は多い。そもそも、同じ記事内で両者を取り上げること自体に、それらの関係をほのめかす意図や欲望が透けて見える。このことを批判しようと言うわけではない。筆者はむしろ、ヌシ的存在とUMAとは文字通り同一であるとさえ考えている。

通常ヌシ的存在とUMAとを同一視する場合「UMAを目撃した昔の人間がそれを超自然的なヌシであると考えた」という流れが自然だろう。あるいは「何らかの自然現象が時代によって超自然的なヌシとされたりUMAとされたりしているのだ」という流れもある。観測可能な事象の中で両者を結びつけるなら、こうした考えに不自然さはない。とはいえ、それは両者をあくまで自然現象の中で扱うということだ。本稿ではその他の流れとして「ヌシ的存在が時代に合わせてUMAに遷移した」という流れを提示してみたい。

:それぞれの扱い Edit

ヌシ的存在が自然や、それを扱う自然科学の外に位置するのに対し、UMAはそれらの内に位置するものとして扱われる。この「扱われる」ということが重要である。どういうことか。

ヌシ的存在にしろUMAにしろ、実在を疑う余地もないほど立証されてはいない。それは目撃談や因縁話、真偽不明の身体の一部や写真などといった痕跡によって存在が語られるものでしかない。ヌシ的存在もUMAも、それを巡る言説によって構成される存在であり、そこでは人々がそうしたものをどのように見なし、どのように語るか、が重要な役割を果たすということだ。それはつまり、ヌシ的存在もUMAも、それがいかに扱われるかが大きな意味を帯びているということだ。そして(繰り返しになるが)ヌシ的存在とUMAとの扱いにおいて、最大の違いはヌシ的存在が超自然の存在であるのに対し、UMAが生物であることを前提としている点にある


ここでは、ヌシ的存在が成立した当時の人々にとって超自然的な存在と思われていたかどうかは直接は関係しない。むしろ近代・現代においてヌシ的存在が超自然的なものとして扱われるようになったことが肝心である。その理由として近代から現代にかけて、超自然的な存在が(一般的には)徐々にリアルさの強度を失いつつあることが挙げられる。

近代以降の自然科学の発達と普及や、いわゆる「大きな物語」の低落などによって、超自然的な存在を素朴に信じるという態度は減っている。それは神などの元から超自然的な存在とされていたものだけでなく、たとえば河童やドラゴンなど、あとから超自然的な存在、空想の存在とされるようになったものにまで及ぶ。

神話や伝承の中から、自然科学で扱いうるような要素が「再発見」されたりするのも、同じ流れの一部だろう。この場合、民話や伝承は特定の自然現象などを説明する装置としての機能も担っていることになる。ところが、現存するUMAの証拠とされるものには、その実在の証拠とされる事柄について今はまだ説明が出来ないものも多い。その事象が昔からあったのであれば、それはかつて、ヌシ的存在が実在するという言説にもっともらしさを与えていたはずである。この推測をさきほどの、超自然的な存在がリアルさを失いつつあることと合わせて考えると、もっともらしさを与えている事物はあっても、それによってもっともらしさを与えられる対象、つまりヌシ的存在の方がそもそもリアルさを維持できなくなってきたということになる。目撃談や足跡、体の一部のミイラくらいでは、リアルさを支えられなくなっているのだ。

:それぞれをつなぐもの Edit

目撃談や足跡、体の一部のミイラといった事物はヌシ的存在がどのような扱いをされるかにかかわらず、存在する。そしてそれらはヌシ的存在に代わって、自らを説明するような新たなものを必要とする。写真に写った影、足跡のようなくぼみ。つまりそれらを目にした人間は「これはいったい何なのか。何によってもたらされたのか」とあらためて考えることになる。昔の人間であれば、それをその地に伝わる伝説の存在と結びつけることだろう。だが今や、その存在は実在の可能性を考慮してもらえるような状態にない。かくしてここに、UMAが誕生するのである。

これだけなら、ある場所でヌシ的存在の占めていた位置がUMAに変わっただけに見える。しかし、ヌシ的存在とUMAとでは大きな違いがある。先にも述べたがUMAは自然の内部に属する生物なのである。それは血肉を備え、生態があり、ライフサイクルを有する。自然科学で扱うことができ、それに反するようなことはしない。仮に現在の自然科学では否定されそうな要素を持っていても、「それは現代において未解明の、科学的な理由があるのだ」という、よくある理屈によってある程度は目をつぶることができる。


ある種の超自然的存在がリアルさを備えた存在としての自己を維持しきれなくなったとき、それでもなお残る事物を媒介として、自然内の存在であるUMAへと変わる。それをとりあえず「受肉」と呼ぶこととする。

:ヌシ的存在からUMAへ Edit

そこで、流れが変わる。様々なデータや言説がUMAの生物としての(あるいは自然現象としての)もっともらしさを強めれば強めるほど、それはヌシ的存在が超自然的な、非リアルな存在であるという認識を補強していくのだ。そしてヌシ的存在は何らかの事実を元にした、空想上のものとして実在感を失っていく。それどころか、UMAについての言説へぶら下がるものとして、存在感そのものが失われている。大型の著名な水棲UMAについての記述の中でその地に伝わる伝承が言及されるとき、その具体的な内容についてほとんど述べられないというのは、実際的な理由(紙幅の関係、本論と関係がない、など)以上にそうした事態を象徴しているようにも見える。

こうした流れの変化は一部に留まらない。河童や中世の伝承に出てくるドラゴン、あるいは現在まだ現地人の間ではリアルさを維持できている超自然的な存在もまた次々と「受肉」しUMAとして扱われるようになっている。それはこれまで民俗学やフォークロア、文化人類学などの扱ってきた対象がUMAという形を取ることで自然科学にも扱えるようになるということだ。実在の可能性やその正体などを生物学・動物学的に検証するスタンスも、こうした動きに含まれるだろう。そのこと自体に善し悪しはない。しかし、なぜこうした事態が起きているのか。もともとヌシ的存在やその他のかつてリアルさを持っていた超自然的な存在は、地域共同体という社会形態と密接に関わっていた。こうした緊密な地域共同体が失われつつあることもあるだろう。近代以降の合理主義や、科学技術の提供する世界観の偏重といったことも大きい。しかしそれ以外にも大きな要因があるのではないかと筆者は考えている。しかしそのことについては別の記事で述べたい。

こうして、あるUMAが自分と結びつくヌシ的存在を日陰に追い込む一方で、「受肉」はかつてヌシ的存在がリアルさを持って信じられていた当時の人々へ与えていたインパクトの一部を引き継ぎ、現代へと延命する装置としても作用している。前節の記述とやや重複するが「受肉」とは、ヌシ的存在が自然科学によって扱える種類の存在となることで、そのもっともらしさを回復する流れだからだ。

そしてヌシ的存在とUMAとが同じ「何か」の異なるフェーズの現れであるとするなら、UMAをヌシ的存在へと還元する(あるいはその延長と見なす)ことで民俗学やフォークロア、文化人類学の中で扱うこともあながち的はずれではないだろう。ヌシ的存在がUMAへと受肉することで、自然科学によって扱えるようになったのと同じように。

「ヌシ的存在からUMAへ」執筆中です。加筆訂正はeditよりお願いいたします。

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